餅飯殿辨財天社(奈良市) もちいどのセンター街に鎮座する歴史ある古社

餅飯殿辨財天社(もちいどのべんざいてんしゃ)は、奈良県奈良市餅飯殿町に鎮座しています。

「もちいどのセンター街」をぶらぶらと歩いている時に出会った餅飯殿辨財天社。

こんな所に辨財天さまがいらっしゃるとは驚きです!

餅飯殿辨財天社の向かいには聖寶理源大師堂があり、理源大師と「餅飯殿町」という地名に深く関わりがある事を知りました。

それでは、餅飯殿辨財天社へと参りましょう。

 

 

「餅飯殿センター街」を歩いている時に、偶然出会った餅飯殿辨財天社。

こんな所に神社がっ!?

宗像神社・・っと書いてありますが、宗像神社に祀られている辨財天社ということなのかな?

 

 

こちらが宗像神社の餅飯殿辨財天社

 

 

餅飯殿辨財天社の御由緒

 

【餅飯殿弁財天社 宗像神社】

弘仁四年(八一四)、弘法大師は南郡皇城の守護神として興福寺南円堂の南岸に吉野天河大辨財天社より御分神を勧請、窪之辨財天社を建立鎮座を給わりました。

当郷(当時は富貴之畠郷(ふきのはたごう)と呼び現在の餅飯殿町)は餅飯のお供えを調え、十七ヵ日の法要のお供えを差し上げました。このことが、後の「餅飯殿」の町名の由来になったと言われております。

同年、当郷へ吉野天河大辨財天社より七辨財天神を勧請、鎮座を給わり、「蕗之畠郷七辨財天」と申します。神殿には、様々な経緯を経て、御七座を奉祀申しあげております。

 

 

かつての餅飯殿七辨財天は御六座を宗像神社に、御一座は餅飯殿町内の町家にお祀りされていたようです。

令和二年五月三十日に餅飯殿町内の町家にお祀りされていた御一座を宗像神社にお迎えして、餅飯殿七辨財天がお祀りされるようになりました。

 

 

聖寶理源大師堂

聖寶理源大師(八三二~九〇九)は、役行者が白鳳時代に開いたと伝わる吉野・金峯山寺やその奥院に当る大峯山を踏破し、修験の道を再興、江戸時代には天台宗修験の本山派に対して、当山派(醍醐・三宝院流)の祖とあおがれた、修験道では特に有名な方です。

 

 

餅飯殿町の由来 聖寶理源大師と箱屋勘兵衛

 

白鳳時代、役行者により大峯山修験道の山路は開かれましたが、大蛇がすみつき、人に危害を加えたため、二百余年の間入峯が途絶えてしまいました。

理源大師は、これを大変悲しみ、寛平七年(八九五年)第五十九代宇多天皇の勅命で、大蛇退治へと向かいました。

その際、共に峯入りした勇敢な若者衆の一人が当郷にすむ箱屋勘兵衛でした。

二人は、ホラ貝を吹き鳴らし、響きに誘われてきた七曲りもある極めて大きい蛇を仏具の独鈷で打ち付け退治しました。

それ以降、再び大峯山修験道は開かれ、無事安心して入峯できるようになったと「大峯山上講縁起」に記載されております。

当郷の町民は、大蛇を退治してお帰りになった理源大師と勘兵衛達に餅と飯でお祝いを差し上げました。

その後、理源大師から郷へお礼状が届き、そこには「餅飯殿へ」と書かれており、これより「蕗之畠郷」から「餅飯殿郷」に変わり、現在の「餅飯殿町」になったと言われております。

(一部抜粋)

 

聖寶理源大師堂には、「聖寶理源大師の尊像」、「神変大菩薩役小角行者の尊像」、聖宝僧正より授けられた御神符の「山上講御守り」、餅飯殿大峯山講の大先達「箱屋勘兵衛の霊位」がお祀りされています。

 

 

後に、箱屋勘兵衛により餅飯殿にも蔵王権現に参詣する山上講「餅飯殿講」が組織され、理源大師より授けられた御神符の山上講御守りを携え、大峯山・金峯山寺に参拝登山するようになりました。

今も途絶えることなく、山上参りは続いているそうです。

吉野郡黒滝村百貝岳の中腹に建つ鳳閣寺の境内には、理源大師廟塔と箱屋勘兵衛の墓碑があります。

 

 

千体地蔵堂

 

 

アクセス

 

【所在地】奈良県奈良市餅飯殿町40

【駐車場】なし

【アクセス】近鉄奈良駅より徒歩10分(もちいどのセンター街)

 

 

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