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まだ夏の暑さがまだ身にしみる頃、大阪府茨木市にある総持寺を訪れました。
総持寺は、西国三十三所観音霊場の第22番札所。
高野山真言宗のお寺で、御本尊は千手観世音菩薩です。
境内に入ると、歴史を重ねてきた堂宇が静かに建ち並んでいます。
総持寺の魅力は、観音霊場としての信仰だけではありません。
平安時代に始まる長い歴史と、「亀の恩返し」にまつわる縁起、そして江戸時代の姿を今に伝える建築物群。
今回は、そんな総持寺の歴史と境内の建物を中心に、ゆっくり歩いてみました。
それでは、総持寺へ参りましょう。
目次
亀の恩返しから始まった総持寺
総持寺の創建は、平安時代の寛平2年(890年)。
開基は、中納言・藤原山蔭です。
総持寺には、古くから「亀の恩返し」と呼ばれる縁起が伝えられています。
藤原山蔭の父・高房が、まだ幼かった山蔭とともに大宰府へ向かう途中、猟師に捕らえられていた一匹の大亀を助け、川へ放しました。
その翌日、今度は山蔭自身が川に落ちてしまいます。
その危機を救ったのが、前日に助けられた大亀でした。
亀の背に乗って助けられた山蔭。
この出来事に観音様の御加護を感じた高房は、千手観音像を造立することを願いました。
父の遺志を継いだ山蔭は、亀に乗った千手観音を造立し、その観音様を祀るために総持寺を創建したと伝えられています。
この「亀の恩返し」の物語は、『今昔物語集』などにも伝えられている総持寺を代表する縁起です。
現在も境内には亀にちなむものが多く見られ、総持寺と亀との深い結びつきを感じることができます。
一条天皇などの勅願寺として栄えた寺
創建後の総持寺は、皇室との関わりも深く、平安時代には一条天皇、後一条天皇、白河天皇、鳥羽天皇の勅願所となりました。
また、宮中の后などから安産を願う観音様としても信仰を集めたとされています。
御本尊の千手観世音菩薩は、総持寺の創建以来祀られてきた秘仏。
「子育て観音」「火除け観音」「厄除け観音」としても信仰されています。
長い歴史の中で、総持寺は単なる一つの寺院ではなく、多くの人々の願いを受け止めてきた観音霊場だったことがわかります。
戦国時代の兵火、そして再建
中世には塔頭が十数坊もあったとされ、壮大な伽藍を誇っていた総持寺。
しかし戦国時代、境内が織田信長の砦となったことをきっかけに、茨木合戦の兵火によって伽藍は焼失してしまいます。
その後、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の命によって片桐且元が再建奉行となり、総持寺の伽藍が再び整えられていきました。
現在見ることのできる境内の建物には、この再建以後の歴史が刻まれています。
総持寺の建物を見て歩くことは、江戸時代の寺院建築を訪ねることでもあるのです。
総持寺の境内を歩く
仁王門
まず目に入るのが、境内の入口に建つ仁王門。
三間一戸の楼門形式で、入母屋造、本瓦葺の建物です。
門の左右には仁王像が安置され、寺院を守っています。

総持寺の境内入口に建つ仁王門。江戸時代の建築を今に伝える建物の一つ。
総持寺の仁王門は、江戸時代の建築を今に伝える建物の一つ。
境内へ入る前から、長い歴史を持つ寺院であることを感じさせてくれます。
本堂
総持寺の中心となるのが、本堂です。
現在の本堂は、江戸時代に再建されたもの。
桁行7間、梁行7間の大きな建物で、入母屋造、本瓦葺となっています。
堂々とした屋根と大きな建物は、長い年月を経た寺院ならではの落ち着きを感じさせます。

総持寺の本堂。御本尊・千手観世音菩薩をお祀りする、境内の中心となる堂宇。
本堂には、総持寺の御本尊である千手観世音菩薩が祀られています。
秘仏であるため、普段そのお姿を直接拝することはできません。
「亀の恩返し」の物語から始まった総持寺の信仰が、今もこの本堂を中心に受け継がれているのです。
薬師金堂
本堂のほかに、境内で目を引くのが薬師金堂です。
正面3間、側面4間、向拝1間の寄棟造、本瓦葺。
こちらも江戸時代の建築物として残されています。

総持寺の薬師金堂。江戸時代の建築を今に伝える、境内に残る歴史ある堂宇。
本堂とはまた異なる姿の堂宇で、総持寺の境内における伽藍構成を知るうえでも興味深い建物です。
本堂だけに目を向けるのではなく、境内に残るそれぞれの堂宇を眺めながら歩くと、総持寺という寺院の歴史がより立体的に感じられます。
如来荒神堂
一間社春日造、こけら葺の建物で、こちらも江戸時代の建築です。
寺院の中に神社建築を思わせる春日造の堂宇が残っているところにも、長い歴史を持つ寺院ならではの趣を感じます。
小さな堂宇にも、それぞれの役割と歴史がある。
そう思って境内を歩くと、総持寺の建物を見る楽しみがさらに深まります。
宝蔵
桁行1間、梁間1間の校倉造で、寄棟造、本瓦葺。
小規模ながら、古い寺院建築の姿を伝える建物です。
寺院には、本堂や山門のような大きな建物だけでなく、寺宝を守るための建物も必要でした。
こうした建物まで残されていることが、総持寺の大きな特徴の一つです。
鎮守社
三間社流造、こけら葺の建物で、こちらも江戸時代の建築として残されています。
寺院の境内に鎮守社があることからも、古くからの神仏習合の歴史を感じることができます。

総持寺の境内に建つ鎮守社。江戸時代の建築を今に伝える、三間社流造の社殿です。
総持寺では、こうした堂宇を一つひとつ見ていくことで、寺院建築だけではなく、日本の宗教文化そのものに触れることができます。
東門
境内には東門も残されています。
一間一戸の四脚門で、切妻造、本瓦葺。
大きな仁王門とはまた違った、簡素で落ち着いた姿の門です。
こうした門も含めて、総持寺には江戸時代から続く伽藍の姿が残されています。
庫裏
寺院の生活を支える建物である庫裏も、総持寺では歴史的建造物として残っています。
切妻造、妻入の大きな建物です。
そして、この庫裏には総持寺ならではの歴史があります。
明治28年(1895年)には、ここで大阪府第四尋常中学校が開校しました。
現在の大阪府立茨木高等学校につながる学校で、総持寺の庫裏が地域の近代教育の舞台となったのです。

「大阪府立茨木高等学校発祥の地」と刻まれた石碑。総持寺には、明治時代に学校が開校した歴史が残されています。
寺院の歴史だけではなく、地域の教育史にも関わっている。
そう考えると、総持寺の境内に残る建物が持つ意味はさらに大きく感じられます。
鐘楼
一間四方、入母屋造、本瓦葺。
こちらも江戸時代の建築として残されている建物です。
寺院の鐘楼というと、境内に響く鐘の音を思い浮かべます。
総持寺でも、長い歴史を刻んできた境内の中で、鐘楼は寺院らしい風景をつくる大切な存在となっています。
江戸時代の姿を今に伝える境内
総持寺の大きな特徴は、これらの建物が単独で残っているのではなく、本堂、薬師金堂、仁王門、如来荒神堂、宝蔵、鎮守社、東門、庫裏、鐘楼という9棟の建築物群として残されていることです。
茨木市は、これらを一括して市指定有形文化財に指定しています。
江戸初期・中期・後期、それぞれの時代の建築遺構が残っていること。
そして、中心伽藍の規模や寺地が江戸時代から大きく変わっていないこと。
これが総持寺の貴重なところです。
境内を歩いていると、ただ古い建物が残っているというよりも、
江戸時代から続く寺院の風景の中を歩いている。
そんな感覚になります。
包丁道の祖・藤原山蔭
総持寺を語るうえで、もう一つ忘れてはいけないのが開基・藤原山蔭です。
山蔭は料理にも大変優れた人物だったと伝えられています。
総持寺の縁起では、千手観音像の造立にあたり、仏師に千日間料理を供えたことから、料理や包丁に関わる人物としても知られるようになりました。
現在、藤原山蔭は包丁道の祖としても祀られています。

総持寺の境内に建つ包丁塚。包丁道の祖・藤原山蔭とのゆかりを今に伝えています。
境内には包丁塚もあり、料理人などから奉納された包丁を通して、総持寺と「食」の文化とのつながりを見ることができます。
毎年4月18日には、山蔭卿の御宝前で伝統的な「山蔭流包丁式」が行われています。
歴史を知ると、境内の景色が変わって見える
今回、総持寺を歩いて感じたのは、境内に残る建物そのものが歴史を語っているということでした。
平安時代の創建。
「亀の恩返し」という縁起。
歴代天皇の勅願所としての歴史。
戦国時代の兵火。
豊臣秀頼による再建。
そして江戸時代から続く伽藍。
さらに明治時代には、庫裏が地域の学校教育の場にもなりました。
一つのお寺の中に、これほど多くの時代の記憶が重なっています。
本堂だけを見るのではなく、仁王門をくぐり、薬師金堂や如来荒神堂、宝蔵、鎮守社、東門、庫裏、鐘楼と境内をゆっくり歩いてみる。
そうすると、総持寺が単なる西国札所ではなく、茨木の歴史そのものを今に伝える寺院であることが感じられます。
暑さの残る境内を歩きながら、長い年月を越えて残されてきた堂宇を眺めました。
平安時代から続く観音信仰。
そして、江戸時代の姿を今に伝える伽藍。
総持寺には、長い時間を静かに積み重ねてきた寺院ならではの魅力がありました。
御朱印

西国三十三所観音霊場第22番札所総持寺の御朱印
アクセス
【所在地】大阪府茨木市総持寺1-6-1
【札所等】西国三十三所第22番、摂津国八十八箇所第47番、摂津国三十三箇所第27番
【駐車場】あり
【交通アクセス】JR京都線「JR総持寺駅」から徒歩約5分、阪急京都線「総持寺駅」から徒歩約5分



