子嶋寺(奈良) 高取城二の門が残る子嶋曼荼羅のお寺

子嶋寺(こじまでら)は、奈良県高市郡高取町観覚寺にある高野山真言宗のお寺です。

山号は子嶋山(報恩山とも)。

かつては、大和七福神めぐり「大黒天」の札所でありましたが、経営上の理由から長谷寺へと変わり、現在は無住のお寺になっているようです。

長閑な風景を楽しみながら子嶋寺へ行ってきました。

それでは、子嶋寺へ参りましょう。

子嶋寺駐車場

 

 

車をとめ、長閑な風景を楽しみながら、子嶋寺へと向かいます。

 

歩くこと5分程でしょうか。

子嶋寺へ到着です。

 

 

ご由緒

 

創建の時期については、複数の説があるようです。

寺伝によりますと、752年、孝謙・桓武天皇の疾病を癒した僧・報恩が子島神社(現存)の畔に国家鎮護のため伽藍を建立したのが始まりで、子嶋山寺と称しました。

当時は一丈8尺の巨大な観自在菩薩と四天王像を安置する大寺院であったようです。

平安時代中期には一時衰退しますが、興福寺の僧・真興(しんごう)によって中興されます。

寺号は「子嶋山寺」 → 真興による中興以降は「観覚寺」 → 「子島山千寿院」と称されましたが、明治36年に「子嶋寺」に改称されました。

 

 

京都・清水寺は子嶋山寺の末寺だった!

 

京都を代表する大寺院・清水寺は、かつて子嶋山寺の末寺でありました。

 

ある日、子嶋山寺の僧・賢心(後の延鎮上人)は夢で見たお告げに従い、辿り着いたのが今の清水寺の音羽山。

そこには黄金の滝と、滝の畔に一草庵があり、修行者行叡居士(ぎょうぎこじ・観音の化身)がいました。

行叡は「自分はこれから東国に旅立つので、後を頼む」と言い残して去り、賢心は行叡が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置しました。

宝亀9(778)年、これが清水寺の始まりだと伝えられています。

子嶋山寺の初代・報恩が亡くなると、清水寺を創建した賢心は子嶋山寺に戻り、二代目を継ぎ、清水寺は子嶋山寺の末寺となりました。

 

京都観光には外せない大人気となった清水寺と、今ではひっそり佇む子嶋寺。

対照的な姿に歴史の流れを感じます。

 

 

境内

 

山門から、とってもいい感じのお寺の雰囲気が漂ってます。

 

 

こちらの山門は高取城二の門を移築したもの。

 

すっごい重厚感のある門です!!

高取城の建築物で現存しているのは数少ないとか。

 

かなり老朽化が目立ってきていますが、貴重な山門です。

 

 

本堂

ご本尊は大日如来。

 

今では小さなお寺となってしまいましたが、子嶋寺には国宝があるのです!

 

 

国宝 紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図(子嶋曼荼羅)

 

一条天皇が病にかかった際、子嶋寺の僧、真興が祈祷することにより、一条天皇の病が治りました。

天皇は、恩賞として真興に、「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」、「大般若経典」、「十三重塔」を下賜されました。

 

「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」とは、文殊菩薩の親筆(直筆)で、空海が入唐の砌、聖地五台山で異僧と術競べをして勝ったために得たものだとか。

空海は帰国後、これを宮中に納め、時が経ち、一条天皇は「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」を真興に授けたといわれています。

「紺綾地金銀泥両曼荼羅図」は、京都の東寺と神護寺の曼荼羅図とともに日本の三大曼荼羅図と称され、寺名をとって「子島曼荼羅」とも呼ばれています。

実物は奈良国立博物館に寄託されていますが、本堂では縮小されたレプリカを拝見することができるようです。

 

 

山門近くにQRコードがあったので読み込んでみました。

 

すると、、国宝「子嶋曼荼羅」の動画が!

 

とっても美しい曼荼羅図です。

 

 

 

本堂の扁額にはかつての寺号「観覚寺」

 

 

「子嶋寺観覚寺」と読めるかな?

 

 

一条天皇から下賜された十三重塔が今も境内に残ります。

 

 

不動明王

現在は無住となってしまった子嶋寺ですが、新しいお花がお供えされていました。

少し安心して、心が和みました。

 

 

平安初期には長谷寺と壷阪寺に次ぐ大和国の観音霊場として栄えた子嶋寺。

今は小さなお寺さんですが、かつての歴史を知り、とても驚きました。

早く拝観できる日が来ることを望みます。

 

 

アクセス

 

【所在地】奈良県高市郡高取町観覚寺544

【駐車場】参拝者無料駐車場あり。

【交通アクセス】近鉄吉野線「壺阪山駅」から徒歩10分

 

 

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