開口神社 安産の神様と海の神様【御朱印】

開口神社(あぐちじんじゃ)は、大阪府堺市堺区に鎮座されています。

ご祭神は、塩土老翁神(しおつちおじのかみ)・素盞嗚神(すさのおのかみ)・生国魂神(いくたまのかみ)。

神功皇后の勅命により、西暦200年頃に創建されたと伝えられている古社です。

奈良時代には開口水門姫神社と称され大阪湾の出入口を守る神社で、日本最古の国道といわれる竹内街道の西端にありました。

では、神仏習合の名残をとどめる開口神社へと参りましょう。

開口神社の御由緒によりますと、神功皇后が三韓(朝鮮半島)より石津浜に上陸され、塩穴松原にて忍熊王(おしくまのみこ)の反乱を平定するべく戦勝祈願の祈祷を行いました。

その折に、老漁師が赤目魚(鯛)を献上したことを吉祥の証と喜ばれ、八重潮路に向かう地に、塩土老翁の御魂をお祀りせよとの詔により開口神社が創建されたと伝えられています。

 

さて、ご祭神である塩土老翁神(しおつじおじのかみ)ですが、海上交通を守る神であり、伊邪那岐命の御子です。

事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)と同神とされていて、住吉三神と同神とも言われています。

その為、開口神社は旧市内唯一の式内社で海の神様として知られ、江戸時代には大阪住吉大社の奥の院と称されていました。

 

また、天平18年(746年)には、行基により念仏寺が建立され、その後、空海が宝塔を建立したと伝わっています。

念仏寺の通称が「大寺」であったため、念仏寺が廃寺となった現在も、堺の人々は開口神社を「大寺さん(おおてらさん)」と呼んでいます。

境内にはたくさんのお社があることから、古くから大変賑わっていた神社であることがわかります。

 

明治時代の境内図からは、三重塔が見られますね。

残念ながら三重塔は第二次世界大戦の戦災で焼失してしまいました。

 

それでは、平成の境内へとご案内しましょう。

 

拝殿

 

開口神社は今から約1800年前、三韓征伐より帰国された神功皇后が長旅の無事をお守りくださった「塩土老翁神」をこの地にお祀りするため建てられた神社です。

神功皇后は身重でありながら見事に三韓征伐を果たし帰国されます。
そして、無事、応神天皇をご出産された事から、安産・子育ての女神として篤く信仰されています。

「開口」(あぐち)という名は、神功皇后がこの地に上陸した時、お食事をとられるために初めて口を開かれたことから、その名が付けられたと言い伝えられています。

神功皇后とは、とても深いつながりがあり、安産の霊験あらたかな神社なのでしょう。
安産祈願所としても有名で、妊娠五ヶ月目の戌の日に、子宝に恵まれた事に感謝し胎児の健康と丈夫な赤ちゃんを無事出産できるように祈願して頂けると共に、祈願された方にはさらしの帯を授与して下さいます。

 

開口神社には、22社の境内社が鎮座されています。

では、ここから境内社をご紹介して行きましょう。

 

本殿北側には、念仏寺の名残りである薬師社があります。

ご神体として薬師如来坐像が祀られていて、平安後期・行基の作と伝えられています。

開口神社で、神仏習合の要素が残っている唯一の社です。
通常はご開帳しておりませんが、2月3日の節分祭ではご開帳され、殿内で護摩供養が行われます。

 

本殿裏手には7社合祀殿2棟がありました。

向かって右側の棟に合祀されている7つの神社

向かって左側の棟に合祀されている7つの神社

すごくたくさんの神様がいらっしゃいます!

 

まだまだありますよ。

 

境内東側には向かって右側から白髭神社・塞神社(庚申さん)、舳松・松風神社、菅原・岩室神社の2社合祀殿3棟。

 

こちらは、三宝荒神社

別名「竈(かまど)神社」とも言われ、台所の神様として慕われています。
毎年11月28日には三宝荒神大祭を執り行っており、当日は多くの方がお参りされます。
また社務所にて三宝荒神社のおふだを授与して頂けるようです。

 

そして、その隣にも石の鳥居があるのが見えると思うのですが、こちらが「影向石」と言われています。

影向石は神仏がお姿を現される御座の石の事です。

開口神社の影向石は、塩土老翁神が行基菩薩と法談されるときに腰かけられたとも、弘法大師とお会いになられたとき座られた石とも伝えられています。

緑がかった2個の石が見られ、丁度、2人が座れるような石ですね。

 

ご影石の横には「扇塚」があります。

こちらは、芸能の神様です。
毎年11月上旬に扇塚前で使い古した扇を供養し、芸事の上達を祈願する「扇まつり」が行われています。

 

豊竹稲荷神社

ご祭神は倉稲魂命。
本来は穀物・農業の神様ですが、現在では産業全般の神として信仰されています。
開口神社では毎年、旧初午の日に初午祭が行われ、餅まきも行われています。

 

神馬

 

堺市と言えば、千利休が生まれた街です。
灯篭に彫られているのは・・お湯を沸かす茶器でしょうか?

堺の街らしい灯篭ですね。

 

堺市は、歌人「与謝野晶子」が生まれ育った地でもあります。

「少女(おとめ)たち 開口(あぐち)の神(かみ)の 樟(くす)の木(き)の 若枝(わかえ)さすごと のびて行けかし」

この歌は、与謝野晶子が幼い頃に遊んだ開口神社の境内にあった樟の木を見て詠んだ歌だと言われています。

【歌意】
少女たちよ。ふるさとの開口神社にある樟の大木の若い枝が伸びているように、元気よく、しなやかに伸びて行って欲しい。

現在この樟の木はありませんが、幼少の与謝野晶子が開口神社で遊んでいたことを想像すると、何とも感慨深いですね。

 

開口神社 御朱印

御朱印にみられる御社紋は「三成り茄子」

社伝によりますと、白鳳時代(680年)頃に、地元の村で三ツ成りの茄子ができたのを吉祥として奉納されたので、それまで使用していた三ツ巴紋を三ツ茄子に替えたということですが、日本の神社紋章の中でも珍しい御社紋のようです。

 

西門

 

最後に、西門鳥居の横にある「金龍井」をご紹介したいと思います。

正慶元年(1332年)、大寺(開口神社)西門付近に、広智国師乾峯(けんぽう)和尚により創建された「海会寺」がありました。後に南宗寺境内に移転したようです。

金龍井のお話は、1339年のこと。

朝廷から国師号を賜ったほどの名高い名僧で誉高い広智国師乾峯(けんぽう)和尚は、その徳を慕って教えを乞いに訪れてきた金面龍王という龍に、ありがたい戒を授けました。

龍は何かお礼がしたいと申し出ると、干ばつで困っている人々のために水が欲しいと和尚は願います。

そこで龍は清水を求める方法を教えました。

「地面に鵜の羽を敷いてそこに白露が浮かぶところを見つけ井戸を掘る」と言う通りにした所、水が湧き出したそうです。

これが金龍井であると伝えられています。

泉南第一の名泉とうたわれていましたが、明治以降から今まで人目を避けるように蓋をされていました。

この地域が活性化する恵みの水にしたいという思いから、井戸を再び開けることになったようです。

すごいですね。

名泉から今でも滾々と水が涌き出でているのですね。

 

【所在地】堺市堺区甲斐町東2丁1-29
【御朱印】あり。オリジナル御朱印帳あり。
【駐車場】参拝者無料駐車場あり。
【アクセス】南海本線「堺駅」より徒歩約10分。南海高野線「堺東駅」より徒歩約15分。阪堺線「大小路駅」または「宿院駅」下車、徒歩約5分。

 

※開口神社では様々な祭事が催されていますが、なかでも最大の祭は九月中旬に催される「八朔祭(はっさくまつり)」です。
650年以上も続いている堺最古の歴史を持つ「ふとん太鼓」が担ぎ出される姿は壮観です。

開口神社 公式サイト

 

 

さてさて、この後は、堺山之口商店街を歩いて、菅原神社へと向かいます。

こちらの商店街、顔出しパネルがたくさんあって、楽しかったです。

 

 

 

堺山之口商店街は、与謝野晶子の歌で飾られていました。

与謝野晶子は明治11年、堺区甲斐町の和菓子商「駿河屋」の娘として生まれ、少女時代は、この堺山之口商店街に親しみながら育ったそうです。

歴史ある堺山之口商店街は、与謝野晶子がふるさとを詠んだ歌のフラッグがたくさん飾られていました。

「わが二十(はたち) 町娘にて ありし日の おもかげつくる 水引(みずひ)きの花」

【歌意】
私が二十歳の頃は、堺の町の商家の娘として、あどけない可憐な少女だった。今は東京で妻として母として働く女性として忙しい日々を送っているが。水引き草が素朴な花をつけているのを見ると、あの頃の素朴な娘時代が思われる。