杜本神社(羽曳野市) 反正天皇が行宮された地【御朱印】

杜本神社(もりもとじんじゃ)は大阪府羽曳野市に鎮座されています。

式内社ですが、延喜式神名帳に記載される「河内国安宿郡 杜本神社二座」の論社は羽曳野市と柏原市にそれぞれ1社ずつあるそうで、羽曳野市の杜本神社の方が有力な論社とされています。

*論社(ろんしゃ)とは、似たような名の神社が二つ以上あって、どれが『延喜式』に記されている神社か決定し難いもののことです。

二の鳥居

 

参道

 

拝殿

ご祭神は、経津主神(ふつぬしのかみ)、経津主姫神(ふつぬしひめのかみ)

創建年代は不詳。

崇神天皇のころ、経津主命の14世紀の孫“伊波別命(いわわきのみこと)”が、この地は祖神である経津主命の陵墓であるとしてこの地に住み、祖神をお祀りされたのが始まりとされています。

平安初期には百済宿袮永継(くだらのすくねながつぐ)と、その祖先の飛鳥戸氏(あすかべし)を祀る神社であったようです。

現在の社殿は江戸時代に高津宮から移築したもの。

 

末社・維日谷稚宮(いびやわかのみや)

末社・維日谷稚宮のご祭神は、反正天皇(仁徳天皇の第三皇子)、伊波別命、遠登売命(おとめのみこと)

杜本神社略記によりますと、 仁徳天皇崩御のあと、皇位をめぐって騒乱があった時、反正天皇(はんぜいてんのう)が大和の国、石上神宮に向われるに際し、この地に来られ道に迷われました。

その時、一人の少女(遠登売命)に会い、その忠言に従ってこの地に一夜行在されて、禊(みそぎ)をされたと伝えられています。

この時に反正天皇は、

あふさかに あふやをとめをみとえば
たゞには のらじたぎまじをのる

と歌われました。

明治42年頃まで駒ケ谷南三丁余、松林の中に祭祀されていましたが、当宮に移されました。

 

維日谷稚宮の横にあるのが、南木神社。
ご祭神は楠木正成。

写真には写ってないのですが、南木神社の左手に楠木正成の首塚があります。

どうしてここに楠木正成の首塚が?
観心寺にもあったなぁ。

 

末社

右奥から
天満宮・光圀稲荷神社・猿田彦大神・光吉稲荷神社・皇大神宮

 

ん・・・?
この朽ち果てて風化している石はなんでしょ?

よく見ますと、「長寿祈願 亀の石」と書いてあります。
この石の元の形は亀だったんですね。

 

亀の石の横には藤原永手の墓

奈良時代の貴族の墓がどうしてここにあるのでしょう?

少し調べてみますと、藤原永手は杜本神社の神格を上げた藤原冬嗣の先祖(祖父の兄弟)であるということがわかりました。

768年には藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命、枚岡神社の天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓に四殿の社殿を造営して祭祀を行うようになったようで、それが春日大社のはじまりだそうです。
藤原永手ってすごい方だったんですね。

 

 

金剛輪寺址

杜本神社の神宮寺として創建されたもので、寺伝では聖徳太子の時と伝えられています。

 

別名で「近つ飛鳥寺(ちかつあすかでら)」又は、「十六山安養院(ししざんあんじょういん)」と言われ、神社と共に南北朝の初期は大変栄えたと伝えられています。

 

「近飛鳥之寺」扁額

「近つ飛鳥」という地名は、「古事記」に記載があります。

反正天皇が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものです。

「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさすようです。

 

【所在地】大阪府羽曳野市駒ケ谷64

 

 

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