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- 大阪の神社 - 羽曳野市
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、大阪府羽曳野市に鎮座されています。
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を主祭神として、住吉大神を併せ祀ります。
社伝によると、永享5年(1433)に足利義教(室町幕府第6代将軍)が奉納した「誉田宗廟縁起絵巻」には、欽明天皇(第29代)の勅定によって応神天皇の陵の前に営まれた社殿を、後冷泉天皇(第70代)の頃(1045~68)になって、南へ1町(約109メートル)離れた現在の場所に造り替えたことが伝えられています。
境内
扁額の八幡宮の八の字には鳩
境内案内図
河内名所図会(江戸時代の誉田八幡宮の様子)
享和元年(1801)の「河内名所図会」や天保9年(1838)の古図には、本社や摂社、神宮寺の堂宇など多くの建物が並び、参詣の人々が訪れる様子が描かれています。
向かって右手の方に応神天皇陵があります。よく見ると、放生橋(赤〇印)があるのがわかります。
手水舎
拝殿(桜が咲く季節に撮影)
拝殿は東面する入母屋本瓦葺で間口十一間、奥行三間の細長い木造建築で、いわゆる割拝殿の形式となっています。
正面中央部を拝所とし、向拝(ごはい)部分は、唐破風造りで蛇腹天井となっています。
慶長11年(1606)に豊臣秀頼が再建しましたが、完成直前に大阪の役(冬の陣、夏の陣)が勃発したため放置されていました。その後、徳川家によって完成されました。
徳川家によって最後の仕上げがなされたので、三ツ葉葵の定紋が付けられています。
拝殿向かって右側には、菅原道真公が誉田八幡宮に訪れた際、八幡大神より剣を拝受した時に石にひざまずかれたという石が残されています。
当宗神社(式内社)
赤馬伝説
『日本書紀』雄略天皇の条に記された赤馬伝説の「おうまやの跡」からは、馬形埴輪庁が見つかっています。
赤馬伝説にある「おうまやの跡」をご紹介したいと思います。
ある晩のこと、一人の男が孫の誕生を祝って訪れた娘の嫁ぎ先からの帰り道、たまたま通りかかった応神陵のかたわらで、馬に乗った人に出会いました。
月明かりに照らされたその人の馬を見ると、何とも素晴らしい姿形をした赤い馬でした。
自分の乗っている馬と比べるとはるかに素晴らしいと思っていると、その赤い馬に乗った人は男の思いを察してか、お互いの馬を取りかえてもよいと言いました。
男は大喜びで赤い馬に乗って家に帰ると、大切な馬を厩につなぎ床につきました。
次の日の朝のこと、男が昨晩手に入れた赤い馬を、あらためて確かめようと厩に行ってみると・・・!!
そこには、赤い馬の代わりに土でつくった馬が立っていました。
不審に思った男は昨夜、馬を交換した応神陵へ行ってみたところ、陵に立つ土の馬の間に、赤い馬と取りかえたはずの自分の馬が立っていたという不思議なお話です。
放生橋(ほうじょうばし)
橋が架けられたのは江戸時代前半と推定され、その後、何度かの修理が行われています。
9月15日の秋季大祭では、応神天皇の神霊をのせた神輿が、本殿からこの橋を渡って応神天皇陵へ渡御する神事が厳かに執り行われます。
現在は脇の平橋を渡っています。向こうに見えるのが応神天皇陵です。
安産木
姫侍稲荷社
南大門
神仏習合と言う思想が発達した頃、誉田八幡宮にも護国寺という神宮寺が生まれました。
神宮寺と併存し、その塔頭十五坊伽藍がそびえ、社人十三家を擁して、その規模は壮大であったそうです。
残念ながら明治初年の神仏分離、廃仏毀釈により、護国寺の大半は取り壊され、当時の遺構としては、南大門を残すのみとなりました。
誉田八幡宮の付近は、再三古戦場の舞台となりました。
神馬
この神馬は篤志家により寄進されたものです。
放生池
餅まき
恵比寿社(誉田えびす祭に撮影)
1月9日には例祭が行われ、餅まき神事が行われます。
動画
(2020年撮影)
(2021年3月撮影)
(2022年4月撮影)
誉田八幡宮 御朱印
誉田八幡宮 河内飛鳥霊場客番 御朱印
アクセス
【所在地】大阪府羽曳野市誉田3丁目-2-8
【御朱印】あり
【駐車場】あり
近鉄南大阪線「古市駅」から徒歩約10分。
誉田八幡宮 公式サイト
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