高津宮(こうづぐう)は、大阪市中央区に鎮座されています。
主祭神は仁徳天皇。
貞観8年(866年)、平安期の初期清和天皇の勅命により、難波高津宮(皇都)の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったことに始まります。
それでは、高津宮へとご案内しましょう。
鳥居
扁額
境内
仁風敷宇宙と徳化洽乾坤
「仁風敷宇宙」(じんのかぜうちゅうをしく)
思いやりのある風が宇宙に満ち溢れるとき
「徳化洽乾坤」(とくかけんこんす)
人を思う慈しみは行動となって天と地に広がる
それぞれ頭文字に「仁」と「徳」。
梅之橋
現在の石橋は1768年に奉納されたもの。
かつての高津宮一帯は梅の名所であったそうで、この橋の名前の由来となっています。
昔はここに梅川が流れていたそうで、「摂陽奇観」(江戸時代後期)では、東から西に流れる梅川を掘り広げたのが道頓堀とする「梅川道頓堀上流説」が紹介されています。
梅の井
江戸時代、梅川のほとりにあった名水で、上町台地の伏流水が涌いていました。
現在の梅の井は石蓋をした空井戸であり、高津宮南側の蓮光寺境内にあった井桁を移設したようです。
右側の梅ノ井の碑は、仁徳天皇千五百年大祭の際(明治三十二年)東町有志によって建てられました。
北野恒冨筆塚
北野恒冨(きたのつねとみ)の十三回忌昭和三十四年に門人達が彼の愛筆を埋納したものです。
恒冨は明治十三年金沢に生まれ、同三十年に来阪し、浪華情緒あふれる美人画で知られています。ここに建碑されたのは、恒冨が高津宮参道付近に住んでいたことによります。
筆塚の文字は友人だった河東碧悟桐(かわひがしへきごとう)、発起人は生田花朝・中村貞似・菅楯彦らです。
参道
命の木
手水舎
拝殿
仁徳天皇を主祭神とし、左座に祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇。右座に后の葦姫皇后(あしひめこうごう)と長子の履中天皇が祀られています。
浪速の守護神と仰がれる仁徳天皇は、歴代天皇の中で初めて大阪(浪速の地)に本格的な宮廷を築かれた方です。
大阪市歌に
「高津の宮の昔より世々の栄を重ねきて民のかまどに立つ煙・・・」
と唱われていることからもその功績が伺い知れます。
民衆の窮乏を立つ煙の少なさから察して、3年間自分の宮廷が荒れ果てようとも、諸税を中止して救われた方です。
その後、皇室からも敬慕の念厚く、皇太子浩宮様ご誕生の際は、仁徳天皇にあかやって徳仁(なるひと)親王と命名されたとのことです。
高倉稲荷神社(末社)
高倉稲荷神社の横に階段がありました。
この階段の下には、陰陽石と神社があるようです。
陰陽石
女陰や男根に似た自然石は生命や繁栄の象徴と同時に、豊穣祈願、商売繁盛祈願の対象として崇拝されています。
谷末社(白菊社・千年社・常高社)
谷末社と呼ばれているようで、少し暗く感じる場所に鎮座されていました。
◆白菊社の御祭神は草野姫命(かやぬひめのみこと)、野の神で、大山祇命との間に四対八柱の神を生んでいます。
◆千年社の御祭神は大市姫命(おおいちひめのみこと)、農耕神・食料神また、市場の守護神としても信仰されています。
◆常高社の御祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)、山の神。
摂社:比売古曽神社(ひめこそじんじゃ)
御祭神は下照姫命(したてるひめのみこと)。御神徳は子授け。
比売古曽神社は延喜式の神にして古くより高津宮社地に奉斎されていましたが、高津宮が大阪城築城により現在地に遷座以来、高津宮の地主大神として奉斎されています。
絵馬殿
高津宮の御祭神である仁徳天皇が皇居高津宮より民の家々を望み「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは にぎはひたけり」と歌われた高殿をイメージして建てられました。
この歌を詠まれた時は、こんな感じだったのかなぁ。
2万年前の神代杉
縁切り坂
西坂(縁切り坂)
明治初期まで坂の形状が三下り半になっていて、俗に縁切り坂と呼ばれていました。
今は諸々の悪縁を絶つ坂としてひそかに知られています。
縁結びの坂
相合坂(縁結びの坂)
写真ではわかりにくいですが、向こう側にも階段があります。
向こう側と、こちらから同時に坂を登ります。
この坂の頂点でピッタリ出会うと相性が良いと言われています。
動画
(2021年1月撮影)
高津宮 御朱印
アクセス
【所在地】大阪市中央区高津1-1-29
【御朱印】あり
【駐車場】なし
【アクセス】地下鉄「谷町九丁目」駅下車、 2番出口より徒歩5分
高津宮 公式サイト
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